教員評価制度調査研究会議委員 様

「教員評価制度」について〜私たちはこう考えます〜
                           
   愛知県高等学校教職員組合

(1) はじめに

日頃は、私どもの教育活動にご理解を賜り感謝申し上げます。
さて、今回文部科学省が公務員制度改革の流れの中で、能力・業績主義の導入に向け教員評価制度の調査研究費を予算化し、都道府県に措置しました。本委員会の趣旨においても、能力や実績を適正に評価することが明記されています。しかし、私たちはこの制度の導入には様々な問題があると考えています。
 教育において教員の果たす責務が重要なのは、言うまでもありません。この「教員評価制度」も、教員の力量向上をその大きな目的としています。しかし、私たちは給与処遇に差を設けることで、個人の力量や学校の教育力が向上するとはどうしても思えません。教育活動は、試行錯誤の連続です。「どうしたらいい授業ができるか」「どう接したら子どもの成長・発達につながるか」と考え、意見交換し、そして教材研究を行い、生活指導やクラスづくりを考え、実践し、また反省をする、毎日がそして毎年がその繰り返しです。勤務時間を超え、あるいは休日を返上して教育活動にあたることも数え切れません。それはしかし、給与や処遇に反映されることを願ってではなく、職務への責任感、教育活動の中で生まれる様々な達成感、子どもたちとの間に成立する信頼関係、同僚との連帯感、そういった様々なものによっています。私たちが一番の喜びを感じるのは、子どもたちの成長した姿であり、子ども・保護者からの感謝の言葉であり、同僚からの激励です。もちろん、時に子どもや父母から厳しい指摘を受けたり、同僚から批判を受けることもあります。私たちはそうしたことも含め、自由で率直な意見交換こそ重要であり、そうした評価こそが個々の力量向上や学校の教育力を高めるものだと考えます。
 にもかかわらず、教育活動をもとに教員に5段階などの評定をつけ、給与や処遇に反映するという「教員評価制度」を導入することは、助け合い支え合うといった同僚性を弱めかねないこと、常に子どもの視点よりも管理職の評価を意識することにつながりかねないこと、失敗を恐れまた隠し、個々の教員が問題を抱え込み孤立しかねないこと、職場合意に向けた自由で率直な議論よりも管理職の意向が何よりも重視されるようになること、結果として個々の教員の力量と学校全体の教育力がともに低下し、教育を受ける権利主体である子どもたちに不利益がもたらされること、そのことに強い危惧を抱いています。
 民間でも、評価結果・評価基準への不満、チャレンジ精神の減退など問題が相次ぎ、様々な見直しがすすめられ、給与処遇への反映を撤廃したところもあります。また、80年代、業績に基づく評価(メリットペイ)を導入したアメリカやイギリスでは抜本的な制度の見直しが行われています。にもかかわらず、今回文科省がこの制度を導入することの目的に、私たちは社会や学校をとりまく状況の変化、その結果生まれてきた子どもたちの変化、そうしたことの総体として生じた教育現場の様々な問題を、個々の教員の力量の問題に帰そうとしているのではないか、財政上の理由から学級規模や学校規模、教職員定数や施設設備などの教育条件整備を怠っておきながら、さらに個々の教員の「努力」を促そうとしているのではないか、そもそも一部の「優秀」な教員を優遇し、「それ以外」の多くの教員の人件費からその原資を生み出し、結果として総人件費を押さえる(民間企業はそのことを明言)ことが目的ではないか、と多くの疑念を抱かざるを得ません。
 今、教育現場では、様々な困難の中、教職員は子どもたちの成長と発達のため、日夜奮闘しています。そして、子どもたちの成長と時にみせる問題行動に一喜一憂しながらも、仕事にやりがいを感じ、日々努力を重ねています。しかしその一方、長時間過密勤務が蔓延し、教職員の生活・健康破壊がすすんでいます。
 休職者も増加しています。02年度の県立学校の休職者は62人(前年度47人)となり、そのうちメンタルヘルスを理由とするものが25人(前年度19人)を占めています。多忙化と教育をめぐる状況が困難になってきていることが背景にあるのではないかと考えています。そのことは私たちが行った調査(2002年実施 1417名回答)においても示されています。多忙化についていえば、1ヶ月の残業時間が30時間を越える教職員が27.6%、そのうち50時間を越える12.9%に達しています。さらに、日常的な持ち帰り残業、部活動や土曜開放のための土日勤務も多く、過労死の不安について「不安」「他人ごとではないと思う」が59.2%にのぼっています。また、仕事のやりがいについても「持っている」38.6%を「だんだん持てなくなってきている」(38.8%)が上回り、その理由として「忙しすぎる」(44.1%)、「生徒との人間関係が難しい」(28.4%)「健康に不安を感じる」(24.1%)が上位を占めるなど、深刻な状況となっています。
こうした背景にあるのが、教育条件の不十分さや教育制度の問題です。
 高校においては、複合選抜制度のもとで高校の「序列化」がすすみ、同時に進学実績をあげるための学校間競争が激しさを増し、7限授業や早朝補習、土曜「補習」が数多くの高校で行われています。一方で、教職員の懸命に努力にもかかわらず、トイレにタバコの吸い殻が散乱し、教員に対する暴言が後を断たないなど、疲労困憊の状況に陥っている学校もあります。また、障害児学校では全国でも群を抜く過大・過密という困難な状況下、腰痛や頸肩腕などを抱えながら教職員は奮闘しています。
 今、教育現場で求められているのは、こうした問題を解決するための条件整備であり、教育制度の改善です。
 以上、総論的に私たちの見解をのべてきましたが、以下述べるような問題点もあわせ、十分ご検討下さるようお願い申し上げます。


(2) 教員評価制度の問題性

@ 教育は生徒の成長・発達を保障する文化的・精神的営み

 およそ教育は、子どもたちの「人格の完成」をめざし、その成長・発達を保障する営みです。そしてそれは、まさに文化的・精神的営みであり、そのことが教育の重要性及び特殊性を形成しています。そして、学校において教職員集団は、授業や生活指導、進路指導や自主活動など、様々な形で子どもたちと向き合い、その目的の実現のために全力でとりくんでいます。
 そして、子どもたちも時には停滞・後退しながらも、多様な経験を蓄積していく中で、それぞれに成長していきます。それは、特定の教員との関係や特定の経験によって生み出されるものではなく、それまでの経験の総合としてあるのであり、また、常にその後の成長につながる一過程としてとらえる必要があります。つまり、教育における「成果」は短期に現れるものではなく、あるいは測定したり、数値化できるものではありません。
 にもかかわらずそれを評価しようとすれば、数値化できるものに比重がおかれ、大学合格者数や欠席生徒数、退学者数や考査の平均点などが重視され、教育活動に歪みが生まれかねません。また、個々の教員も短期間で「成果」を出そうとし、卒業後も含めた長期的な視点を持ちにくくなることも十分考えられます。
教員を評価することは、こうした様々な歪みを引き起こす危険性があります。

A 教育は集団で行うもの

 学校において子どもたちは、多様な教員との多様な関係性の中で成長・発達していきます。その「成果」は、その総体の中で生み出されるものです。言い換えればその「成果」は、特定の教員の「成果」であるなどということはありえません。
 にもかかわらず、個々の教員を評価しようとすれば、集団として教育にあたる教職員集団の協力関係に大きな歪みを生み出すことは必至です。
 教育上の様々な課題の解決には、教職員集団がそれを率直に語り合い、悩みを共有し、相互に援助することが極めて重要です。個人で解決することは極めて困難であり、むしろ問題を大きくしかねません。開放的な雰囲気の中で、自由にお互いの抱えている問題を出し合い、個々の実践を交流し、問題解決の糸口を探すことが何より重要です。
 しかし、個々の教員評価を行うことは、自己の評価が下がることに不安を感じたり、自己の評価を意識する余り、周囲の教員の問題への関心が薄まるなど、教職員集団総体の力量低下につながる危険性があります。また、自己の評価を気にするあまり、問題を隠そうとしたり、抱え込んだまま孤立することも考えられます。中には無力感にとらわれ、自信喪失に陥り、一人悩み苦しむといった状況が拡大することも問題です。

B 評価基準の設定は、教育を一定の方向に導く

 先行都府県では、評価基準は極めて多岐にわたり、項目ごとに個別に評定を付け、さらにそれらを総計して総合評定をつけるとしています。
 しかし基準を多岐に広げることは、何ら公正さの担保にはなりません。例えば、指導力向上を要する教員に対する制度も、「意欲・適格性」の判定項目には、地域住民との関係など、教員の日常生活にかかわる問題も基準にあげられています。そして、「意欲・適格性」にC判定が出れば、他の項目すなわち「教科指導力」「児童生徒理解・学級経営」に何ら問題がなくても観察の対象にされます。しかし、教員にとって授業こそが最も重要な職務であり、対地域住民との関係は、教員としての評価の対象にすべき項目ではないと考えます。
 さらに、先行都府県では客観性の名の下に様々な評価基準を設定し、しかもそれらを数値化した上、さらに合算し「評定」を算出しています。しかし、そもそも教育は様々な個性をもった教員が集団として行うことに大きな意味があります。得手・不得手があるのも当然であり、それらを集団として補い合うことで、教育は成立します。教員の力量向上を目的とするならば、各評価基準における、個別の問題の指摘はありえても合算しての評価は、その時点ですでに合理性を欠いています。
 客観性の保障のために、数値化されるものが重視される可能性が高まることも危惧されます。「マイナス要素」として生徒指導件数、中退者数、遅刻・欠席者数、「プラス要素」としての有名大学進学者数などに注意・関心が集中し、子どもの成長・発達からの視点が軽視されかねません。
 教育において何より重要なのは、問題行動があった場合にその件数がいくつあったかではなく、その中で子どもとどのように関わったか、そこで子どもがどのように成長したかです。そしてそれは、数値化できないだけでなく、短期的な評価も不可能です。

C 行政・管理職による目標管理が行われ、管理統制がすすむ

 教員評価制度が始まれば、個々の教員は子どもの成長発達の視点ではなく、管理職の評価や評価者である校長が設定した学校目標を意識せざるを得なくなります。そのことは教員が「子どもたちにとってどうか」という視点ではなく「校長からみてどうか」という視点に傾斜し、絶えず管理職の視線を強く意識せざるをえない状況を生み出します。まして、それが自分の給与・処遇と結び付くとした時、さらにそれに拍車がかかりかねません。
同時に計画では、管理職自身が評価の対象にされています。その結果、個々の管理職の目標が教育委員会に管理されることにつながり、個々の職場での学校目標・教育目標の設定とそのための父母・子ども・教職員による論議が、意味を持たなくなる危険性もあります。
また先行都府県では、自己目標をそれぞれの教員が設定するとしています。教育活動を行う上で、個々の教員が目標を持ち、つねにその到達状況を自ら点検することは極めて重要です。ただ、あくまでその目標は、憲法・教育基本法に基づいた上で、自主的に作成されるべきものです。しかし、先行県では学校長が定めた学校目標に基づき、それぞれの自己目標について学校長と面接を行った上で決定されることになっています。これでは、学校長による目標に、被評価者である個々の教員が拘束されることになります。教育において何より重要なのは、子どもの成長発達のための自由で創造的な教育実践とその実現に向けた相互批判を含めた民主的な職場です。管理職による自己目標への指導は、そうした教育現場に管理と統制を強める危険性があります。
 あわせて、管理職による恣意的評価が行われる危険性も指摘せざるを得ません。力量向上が目的であるならば、評価結果が本人に開示されるのは当然です。しかし、東京都では現在も本人開示が認められていません。こうした場合、自己の評価がどうであったか確認することもできず、結果として力量の向上につながらないばかりか、評価結果に対する本人の意見表明が保障されないことにもつながります。先行都府県では、教員の評価者は校長とされています。100名を超える障害児学校を始め多数の教職員が働く職場においてどれだけ適正な評価が行えるのか、校長の担当教科と異なる教科の授業への評価がどれだけ可能なのか、そもそも一人の個人である校長が、教育活動という評価の極めて困難な営みの評価をどれだけ客観的に行いうるのか、あまりにも問題が多いと言わざるを得ません。 

D 競争激化により過労、健康破壊がすすむ

 給与・処遇に結びつく教員評価制度が導入されれば、個々の教員は否応なく競争に駆り立てられ、成果を上げようと勤務時間を超えて働くことが現状よりさらに越えてすすむ危険性があります。また、評価を気にするあまり、年次有給休暇の取得を控えたり、勤務条件の改善要求を控えるようになることも考えられます。現在でさえ、教育現場は多忙を極め、全国調査でも月あたりの超勤時間が80時間を超えるなど、過労死基準を上回っている実態があります。教員評価制度の導入は、こうした状況にさらに拍車をかけるものです。
 また、給与に結びつくこの評価制度は、総人件費抑制と連動していることは明らかです。東京でも、個々の学校単位では絶対評価であったものを、最終的には相対評価に置き換えています。これは、特別昇給など優秀者への給与改善と合わせ、評価の低い教員には昇給を延伸させるなど給与削減を行うことでその原資を生み出すこと、換言すれば評価結果に関わらず、総人件費の枠内でしかこの制度を運用しないということを意味しています。
 教育基本法には教員の身分の適正を期すことが定められています。教員の労働条件は、生徒にとっては教育条件でもあります。適正な待遇が保障される中でこそ、教員は自主的・自発的に、しかも創造的・挑戦的に教育活動に専念できると考えます。

E まとめに

 私たちは、全体の奉仕者として、憲法と教育基本法にもとづき、権利主体である子ども・父母の「評価」を受けることから逃げるものではありません。もちろんそれは、集団として教育に当たる教職員の力量向上をめざすためものであって、給与や待遇に反映されるべきものではあってはなりません。しかし、先行実施された都府県の評価制度は、教員の能力・業績を校長・教頭が評価し、さらに項目ごとに評定をつけ、それを合算し総合評定に換算した上で給与・待遇に結びつけようとするものです。このような評価制度は、教職員集団の協力・共同を破壊し、教員の管理・統制をすすめるものであり、私たちはこれを認めることはできません。
 また、評価者である校長も、教育委員会から評価を受けることで、校長自身も長期的な学校経営の視点を持ちにくくなります。また、教職員の助言者であるべき校長が、自分自身の評価を意識して個々の教員と向き合うとき、その姿勢が助言者、援助者としての立場ではなく、管理者、評価者として成果を求めたり、あるいは問題点を厳しく追及するなど威圧的権威的な傾向が強まることも懸念されます。教育現場で最も重要なのは自由で民主的な議論です。校長自身が評価者となることとあわせ、教員評価制度が、そうした集団的論議を弱めることにつながることを強く危惧します。


(3) 私たちが考える教員評価

@ 憲法・教育基本法を基軸にした評価を

 教員評価を考える場合、まずその基軸を明確にする必要があります。
 私たち教員は、憲法・教育基本法に基づいた教育を行う責務があるのは言うまでもありません。そして、それは「平和的な国家及び社会の形成者」を育て、子どもの「人格の完成」を目的に行わなるべきものです。そのために、私たちは「全体の奉仕者」として、最大限の努力を行うのは当然のことです。
 言い換えれば、そのことに基づく評価は必要ですし、常に自己の教育活動を点検し、学校では教育課程、学校行事を含めた諸活動について、教職員集団による民主的な論議と改善に向けた努力がなされなければなりません。
 そしてこれまでにも、こうしたとりくみは行われてきました。生徒の授業の反応や考査結果、生徒アンケートなどを踏まえ、授業を改善するための教材研究を行ったり、様々な教育研究の場に参加するなど研修を行い力量の向上に努めたり、お互いの授業を見学し意見交換を行ったり、保護者への公開授業を行うなど、教育活動の改善をめざした様々な努力が重ねられてきました。
 そして、こうしたとりくみこそ、「自己評価」「自己点検」あるいは「学校評価」「学校点検」そのものです。今後も子どもや父母、地域に開かれた学校づくりをすすめる中で、さらに幅広い意見交流を行うことこそ重要だと考えます。



A 自主的判断に基づく自己評価こそ重要
 
 私たちは、教育は「国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきもの」(教育基本法)であると考えます。したがって、その評価も直接国民、より具体的には子ども・父母からなされるべきものであると考えます。
 しかし、今回文科省がすすめようとしている教員評価制度は、給与・処遇に結びつけることを前提としています。そのことは当然、給与・処遇の権限を持つ教育委員会が最終的な評価を行うことを意味しており、実際に先行都府県では、校長が行った評価をもとに最終的には教育委員会が評価を決定することになっています。つまり、本会議で検討されている教員評価制度は、あらかじめ「教育委員会が教員を評価する制度」であることが大前提になっています。
 教育委員会は、文科省の指導をうけつつ、これまで教育現場に様々な教育施策を押しつけてきました。今回の教員評価制度の導入は、評価権をもとにさらにその政策の遂行を強めることになりかねません。そのことは、教育の不当な支配を禁じた教育基本法に反するおそれがあると考えます。
 また、給与・処遇に結び付けることは、個人単位での評価を当然の前提にしています。しかし、すでに述べたように教育は個人で行うものではなく、集団で行うものです。
 その点からも、給与・処遇に結び付く教員評価制度は、大きな問題があります。
 私たちは、評価は自らが自らの教育活動に対し、子どもや父母の評価及び同僚の意見などをもとにし、自己点検を行い、教育活動の改善と力量向上のために行うべきものであると考えます。したがって、給与・処遇に結び付く教員評価制度の導入には反対です。

B 「上からの評価」ではなく、子ども・父母も含めた評価こそ重要

 先に述べたように自己評価は非常に重要です。しかし、それは独善的なものであってはなりません。憲法・教育基本法を基軸にし、子どもや父母、そして同僚の意見をもとにした自己評価が重要です。もちろん、管理職も助言者として意見を述べることは必要です。つまり、お互いが個々の教育的力量を高め、また教育現場における様々な課題を共有し、集団として解決する営みこそ求められているのであり、給与・処遇に結びつき、なおかつ管理職がその評価を行う中では、自由で率直な意見交換や相互批判は生まれません。
 実際、先行都府県では自己目標も管理職との面談によって決定され、さらに評価を行うのも管理職であり、最終的には教育委員会が決定します。こうした「上からの評価」では、教員は「上」の意向を気にする余り、本来目を向けるべき子ども・父母の意見が横に押しやられる可能性があります。また、上からの評価は、「無難にこなす」、「問題がないようにみせる」傾向を強め、創造的な実践や自由な論議が生まれににくくなることが懸念されます。
 
C 開かれた学校づくりこそ重要

 私たちが第1義的に責任を負うのは、子ども・父母です。したがって、個々の教員及び教職員集団の教育的力量の向上のために、子ども・父母の積極的な評価を受けることは当然です。そのためには、授業や様々な教育活動を含め、広く公開の場を設け、あわせて率直な意見交換の場を設けることが重要です。そのために私たちは、子ども・父母・地域・教職員を含めた4者による学校協議会の設置を求めてきました。教員評価そして学校評価も、そうした開かれた場での論議の中で、行うべきものであると考えます。
 こうした学校協議会での自由な議論の大前提は、それが給与・処遇に結びつかないこと、評価者が校長や教育委員会でないことが重要です。つまり、そこでの評価はまさに、そこで完結していることが重要であり、その評価は直接個々の教員が受けとめ、自己の教育活動を点検し、改善に努めることが重要です。


(4) おわりに

 以上、私たちの「教員評価制度」についての意見をまとめさせて頂きました。この制度が教育及び教育現場に与える影響は計り知れないものがあります。にもかかわらず、そして私たちの再三の要求にもかかわらず、今回この調査研究会議に私たちの代表が委員に選任されなかったことについて、改めて強い遺憾の意を表したいと思います。
ILO・ユネスコの「教員の地位に関する勧告」(1966年)では、「教員団体は、教育の進歩に大きく寄与するものであり、したがって教育政策の決定に関与すべき勢力として認められなければならない」とし、「給与決定を目的としたいかなる勤務評定制度も、関係教員諸団体との事前協議およびその承認なしに採用し、あるいは適用されてはならない」としています。
 つきましては本委員会が、その重責を担い、十分な論議を尽くされること、その際、教育現場の声に十分耳を傾けること、学校訪問や現場教職員との積極的な意見交換を行うなど、現場に根ざした議論をされること、そして、制度の導入を前提とする文科省の方針に従うのではなく、教育基本法に立脚した教育の条理にもとづき、「制度の導入を行わない」ことも選択肢に含め、徹底した議論を行われることを強く要望するものです。